「ソロ活」 と ハンナ・アレントの「孤独」

社会 や 社会学 は つながる価値 や 社会問題としてのひとり に 目を向けるあまり 何か 見落としていないだろうか ?

はじめまして。↑のような問題意識を持って「ソロ活」をテーマに社会学している大学院生(M1)のMakotoです。

自分のメディアを手軽に持てる世界で何も発信しないなんてもったいない。。。

そう述べては「つながり」を求めている私ですが、「つながる」も「つながらない」も、自己だろうと家族や友人や恋人だろうと推し活やオタ活だろうと何だろうと、私という主体が何かに向き合っている点においては何も変わらないと思うんですよね・・・

さて、今日はそんな考え方と大きく重なるハンナ・アレントの「孤独」という概念を簡単に紹介します。

ハンナ・アレント(1906-1975)・・・ドイツ系ユダヤ人の政治哲学者。ナチス権誕生後直後の1933年にユダヤ人の迫害を避けるべくアメリカに亡命。その後、関心は哲学から政治へ。主著に『全体主義の起源』(1951)『人間の条件』(1958)など。

アレントは『人間の条件』や『責任と判断』(2003)などの著作において、私たちの考える孤独とは違う「孤独(solitude)」の概念を主張します。

私たちは「対話」と言うとき、真っ先に他の人間とのコミュニケーションを思い浮かべるでしょう。でも本当にそれだけでしょうか?もちろん動物や物体とも可能かもしれませんが他に何かないでしょうか?

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そうです。たとえば自問自答という形で、自分自身とも対話は可能なのです。こうした「一人」なのに「二者」いる状態をアレントは「孤独」と表現しました。その反対に、他者を求めて一人でいる時こそ真に対話する相手がいないという意味で一人であり、見捨てられた状態(loneliness)、であると言いました。もっと詳しく知りたい方は、文献リストの石神(2019)や原著、その他サイトでアレントの「孤独」について調べてみてください。

こうした意味で「ソロキャンプ」や「ひとり焼肉」といった「ソロ活」は親しい相手とは一端距離を置いて、自分と向き合う時間を確保するという点において、アレントの言う「孤独」に近いものがあるのではないでしょうか。

ちょっと言葉遊びをすると、「ソロ活」は、社交ではなく「遮」交することで、「己」交(自己との交流)しているのですね。ではソロ活は「孤高」な人がするのでしょうか?そうした問いを考えるのも面白いですね。

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さて、今日はアレントの孤独とソロ活について少し触れてみました。ただ、確認すると、同じようなことを、合同会社センスクリエイト総合研究所代表の藤原裕之さんも書いています。ぜひ下の文献リストからご覧下さい。

ただし、ソロ活を「感覚世界を取り戻す活動」と考え、ぽつんと一軒家もソロ活の範疇で考えることは、どうも納得いきませんが・・・。この辺り「ソロ活」とは何か、という点も追々ちゃんと書きます。一言だけ書いておくと「私はソロ活しています」と意識的に実践する人の「ソロ活」に注目すべきだと考えています。

まぁこんな感じで、特にルールで縛ることはしませんが、社会学や哲学に関心のある方 ソロ活や人間関係に関心がある方 は読んで損にならないなものを書いていこうと思います。

お気軽にコメントなどもいただけると嬉しいです。(反)ソロ活論や(反)友情論などの持論もぜひお待ちしています(笑)

それでは、またお会いしましょう。ばいなら、、、

[文献リスト]

石神真悠子,2019,「ハンナ・アレントにおける“一人である”ことの多層性――政治的主体化へ向けて」『東京大学大学院教育学研究科基礎教育学研究室紀要』45: 71-80.(https://cir.nii.ac.jp/crid/1390572174556163584

藤原裕之,2023,「なぜ『ソロ活』なのか-現代社会で失われつつある『感覚』を取り戻す」,藤原裕   之のブログ,(2024年7月14日取得,https://wakadoku.com/wp-admin/post.php?post=18&action=edit).

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